私は以前、沖縄の放送局の報道部でニュースを取材していました。報道部というのは、時間との闘いです。
その日の出来事をその日の夕方に放送するのはもちろん、最も早い時では、午前10時に行われた出来事を、11時45分のニュース番組のオンエアーに間に合わせなくてはなりませんでした。
そのために書くのがニュースの「予定稿」と呼ばれるものです。取材する出来事に関して、事前にわかることは調べたり、過去の記事などを参考にして、予め原稿に書いておくのです。
予定稿を書いておけば、当日の現場では事前にわからなかったことだけを取材し、原稿の空白部分を埋めて、放送時間に間に合わせることができます。
でも、私は当時、もう定年間近の大先輩からこんな言葉をかけられました。
「事前に予定稿を書くのはいいが、大事なのは予定稿じゃなくて、現場だからな!」
予定稿があれば、取材後に原稿を書く時間が短縮されるので、書き手としては安心できます。けれども実は、予定稿が頭の中にあると「空白の部分だけを取材すればいいや」と思ってしまうので、本当は現場で見たり聞いたりしなければならないことも、見えなくなったり、質問しないままで帰ってきたりすることがあるのです。
これは、空のグラスに満たすための飲みものを買いに行くか、それとも途中まで入っているグラスを満たすための飲みものを買いに行くのか、ということに似ているかもしれません。途中まで入っているグラスに入れる飲みものを買うなら、選択肢はとてもせまくなりますよね。それとともに、自分の「視野」も狭くなるのです。
前述の大先輩が言った「予定稿よりも現場」というのは、そういうことです。予定稿に入れる「部分」だけではなく、しっかりと現場を取材しろ、原稿を書くのはそれからだ、とその大先輩は言いたかったのだと思います。そういうことが、私は報道部に入って何年も経ってからわかりました。
今思えば、「予定稿」は、放送時間に間に合わせなければならないという、放送局側の都合で書いてあるだけで、その出来事を行っている当事者には、何の関係もありません。
これはニュースの予定稿に限らず、ドキュメンタリー番組などの企画取材でも、同じことが言えます。いや、ニュースの予定稿よりも企画取材の方が、きっちりと構成を立ててから取材に行くから、もっとストーリー性を重視して取材するはず。けれど、ストーリー性を重視する余り「現場の声」や「当事者の想い」を無視してはいけないと思うのです。
テレビなどの報道に限らず、現在、私が関わっている出版などの世界でも、そういうことはよくあります。企画の内容にとらわれず、現場の状況や当事者の想いを大切に取材する。それを忘れてはいけないと、今でも肝に銘じています。