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私が実家から再び沖縄に住んだワケ

20代から30代半ばまでの約15年間を沖縄で過ごした私。実は、その間に2年間だけ、実家のある山形に帰っていたことがあります。

 

一度は実家に戻りながら、なぜ再び沖縄に住んだのか。今回は、それをお話しします。

 

子どもの頃から「アナウンサーになりたい」という夢を持っていた私は、大学を卒業する頃、沖縄にどっぷりと浸かり「沖縄の放送局でアナウンサーになりたい」と思っていました。

 

とはいえ、当時の沖縄に民放は2局しかありませんでした。しかも、地方局ですから、毎年アナウンサーを募集しているわけではありません。けれど、とにかく入社試験を受けました。もちろん、見事に落ちましたが…。

 

それでも「アナウンサーになる」という夢をあきらめきれず、しばらく沖縄でアルバイトをしながら過ごしたものの、経済的に行き詰って、実家に帰りました。

 

そして、幸いにも山形では、フリーランスのリポーターとして、テレビやラジオで仕事をさせてもらえるようになったのです。地元の情報番組に出演したり、結婚式の司会などの仕事をしていました。当時の仕事が、今の私の仕事の基礎になっています。

 

そうして山形で過ごしていた頃、沖縄が全国ニュースや全国紙で取り上げられることが増えていきました。時は、1996年12月。日米特別行動委員会(SACO)の最終報告に合意した頃です。「普天間飛行場返還へ」というような見出しが新聞に踊っていたのを覚えています。

 

さらに、プライベートでは沖縄の友人たちが、次々に結婚する時期でした。結婚式へ出席するため、山形から何度か沖縄へ行きましたが、その度に「ああ、私もこんな風にみんなから祝福される結婚式を挙げたい!〆にカチャーシーを踊りたい!」と思ったのです。

 

沖縄への思いが募る一方で、どういうわけか、山形でやっていた仕事がひと段落して、それまでの忙しさがなくなった時期がありました。この時、私は「沖縄から呼ばれている!」と思ったんですね。

 

そして、ついに98年頃、沖縄へ戻る決断をします。

 

再び沖縄に移住した後、学生時代にアルバイトをしていた放送局とのつながりと、山形での仕事の経験を活かして、ニュース原稿を書くようになりました。

 

そうしているうちに、2000年に「沖縄サミット」が開催されることが決定。2001年にはNHKの連続テレビ小説シリーズで、沖縄が舞台の「ちゅらさん」が放送されるなど、どんどん沖縄の素晴らしさが発信され、沖縄が全国から注目されるようになっていきます。

 

今思えば、あの沖縄ブームのような風に乗れたのは、まさに「沖縄から呼ばれた」のでしょう。

 

そして東京に住んでいる現在、以前とは違う意味で、沖縄が全国ニュースや全国紙に取り上げられることが多くなりました。私がこうして沖縄のことを書くようになったのも、再び「沖縄から呼ばれている」ような気がしています。ああ、東京と沖縄の二拠点生活がしたい!!